宗教が「怖い」と感じる理由って?自分の中の偏見に気が付いてショック。




こんにちは。オクユイカ(@Saba0m)です。

日本では「宗教は怖い」というイメージが強いようですが、2年間住んでいたマレーシアではイスラム教やキリスト教、仏教等、宗教が当たり前のように日常生活の中に浸透してた。

イスラム教のマレーシア人
ユイカの宗教はなに?
おく
え、宗教には入っていないけど・・。
イスラム教のマレーシア人
えぇ?!一体あなたは何を信じて生きているの?!

宗教に入っていないことを伝えると驚かれる。

そんな宗教が当たり前の国で生活をしていたら、宗教に対する偏見とかもいつの間にかなくなっていた。

だけど、マレーシアから帰国して1年・・・・。あることをきっかけに、どこかで怖いなと感じている自分がいることに気が付いて、それがショックで今ブログを書いている。

私の中にある今の感情は、きっと「偏見」。

それに気が付いた時、自分の情けなさに涙が出てきた。

なんでだよーーーー偏見を持ちたくない!ってきっと誰よりも思っているはずなのに・・・・

なぜ、宗教が怖いと感じているのか

一般的に、なぜ宗教が怖いとされているのかを書き出してみる。

宗教が目立つときは「事件」が起きた時だから

一番印象深いのが、私が小学生の時に「オウム真理教」が起こした地下鉄サリン事件。

宗教団体のオウム真理教によって、現在の東京メトロで営業運転中の地下鉄車両内で神経ガスのサリンが散布され、乗客及び乗務員、係員、さらには被害者の救助にあたった人々にも死者を含む多数の被害者が出た。

平時の大都市において無差別に化学兵器が使用されるという世界にも類例のない事件であり、国内外に大きな衝撃を与えた。引用:wikipedia地下鉄サリン事件

小学校低学年だったこともあって、テレビで見るニュースは衝撃的すぎた。

新宗教団体といわれていたライフスペースの、信者ミイラ化事件。

白装束をまとって福井に集団移動していたある宗教団体のニュース等々・・・。

こんな風に私は生きている過程で、宗教団体に関するネガティブイメージを自分の体に刷り込ませていたのだと思う。

この時の私の宗教のイメージを言葉にすると

 

「勝手に神と名乗る人を作りだし、洗脳させ信仰させる。お金を喜んで出させたり挙句の果てには罪のない人に殺人までおこさせてしまう。」

「ほら、やっぱり宗教は怖い!」

 

です。

少し前であれば「イスラム国」「IS」という言葉がよく聞かれたけど、これもイスラム教=怖いと結び付けられても仕方が無いような事件。

 

日本では宗教の話題が出る時って「事件」の時だけで。

だから、きっと宗教に否定的な人がいたり怖いって思う人がいるのだと思います。

神様に名前と姿があることに違和感を感じているから

「神様」がいないと思っている訳ではありません。説明が難しいんだけど「いる」と思ってる。

存在を捉えられないようなすっごく大きなもので・・・。何かを叶えてくれるというよりかはすべてを見守ってくれているようなイメージ。

その自分の中にある神様は、姿もないし名前もありません。

だけど、多くの宗教は、信仰する相手の名前があるし写真や絵がある。

そうなると、やっぱり「人間じゃん!」ってなってしまう。

人間なのに神様なの?って。

宗教の対立で傷つけ合ったり戦争が起きたりするから

世界では宗教の対立によって、罪のない子どもが巻き添えになったり、人間同士が憎しみあったりすることがある。

そんな対立を生む「宗教」って一体何なの?!神様なんてやっぱいない。と思ってしまうんです。

(子どもじみたこというアラサーでごめんなさい)

また、判断基準がその人個人ではなくて、「宗教」に従っているのが怖いと感じるのかも?

もし、信仰している神様が「戦争をしよう」ってなったら従っちゃうのかなぁ・・・って。実際にISに洗脳された子どもが自爆テロを起こすのもニュースで見たし・・。

やっぱり世界のニュースで宗教のことを耳にするのは「事件」の時。

宗教に対するネガティブイメージがどんどん膨らみます。

勧誘が押しつけのように感じてしまったから。

中学生の頃、校門をでたところで中年女性の方がいて、小冊子を手渡された。

以前、一人暮らしをしていた時にインターホンが鳴ったので出ると、また中年女性が二人経っていて、小冊子を渡された。

実家暮らしの時もインターホンをがなり、カメラを覗くと、女性二人が小冊子を持って立っていたので、私は居留守をした・・・。

「信じれば幸せになりますよ」と言われても、私は既に幸せだった。信じてなくても幸せだった。

だから、そんな言葉が胡散臭く感じてしまった。

でも誰だって、考えを押し付けられたら嫌ですよね。

「宗教」のことを知らないから怖い

「知らないから怖い」ってよくあります。

例えば、世間一般的には「自閉症」と聞くとパニックを起こすだとか変な行動を繰り返して怖いというイメージを持つ人もいると思います。

だけど、自閉スペクトラム症のある方達と関わることの多い私からしたらそれは全くの誤解なんですよね。私の中には怖いというイメージは全くないです。

私は宗教の本当のことを知りません。知らないからこれまで生きてきた中で入ってくる情報で判断するしかないし、それがネガティブイメージなのだから、やっぱり怖い。

...というより、私はマレーシアでの生活を忘れてしまってるんだわ・・・。あの時は宗教が怖いだなんて思ったこともないんだもん。

「宗教」に対してのわたしの勘違い。

写真:マレーシアの学校での一枚。みんなでお祈りです。

宗教の違いは対立の要因ではない。

日本で「宗教」のイメージが悪い理由も、私が「宗教」を怖いと感じた理由も、当然といえば当然です。

では、なんでマレーシアに居た時は宗教を怖いって思わなかったんだろう?

マレーシアの私が住んでいたボルネオ島には、イスラム教・キリスト教・仏教のそれぞれの宗教を信仰している方々が、いざこざを起こすわけでもなく生活してた。

イスラム教は一日に何回もお祈りがあるし、お酒を飲めません。犬は触ったらダメ。豚を食べてはいけません。

だけど、豚を食べる仏教徒やクリスチャンと仲良く話をします。

クリスマスの時にはキリスト教徒のイベントで町の中では大きな十字架にライトでデコレーションされた車が走り、パレード。その脇をイスラム教の方々が普通に歩いている。

そんな光景に、感動したし、クリスチャンでもないのに「クリスマスいぇ~い!」って言うノリで楽しんでいた自分って一体なんなんだ?!って思った。

マレーシアでは宗教が入り混じっていたんだけど、それが要因でケンカになっていることは一度も見たことが無い。

お互いが認め合っているんですよね。

宗教の違いが対立の要因になるというのは間違った考えでした。

宗教を一括りにはできない

宗教ってものすごくたくさんあります。

たぶんそれぞれに特色があったり違いがあるのだと思うけど、私はそれを知らない。

だから、事件になるような宗教だけが記憶にインプットされて「宗教はこういうものだ!」っていう決めつけを行ってるのだと思う。

本当は違うはずなのに。

宗教を通して相手を見てしまった。

信仰はその人の一部だけであるのにも関わらず、その人のすべてを宗教に染めてしまっていたんだと思う。

これって、セクシュアルマイノリティの時に使った図と全く同じ!

本当は一部なのに

カミングアウトすると

私のすべてが「レズビアン」になってしまう。

宗教に関してもそうですよね。「宗教=その人の全て」のように思い、なんだか重大なことのように考えてしまっていました。

結局は、人間だから間違いもおこす。

おく
なんで、宗教に入っているのに悪いことする人がいるの!?

そんなことをイスラム教のマレー人に聞いた時に言われた言葉。

イスラム教のマレーシア人
ゆいか、私達はみんな人間なの。人間は間違えてしまうことがある。

コーランには正しいことが書かれているけれど、その解釈を間違えてしまうこともあるし、イスラム教であってもコーランの教えを守らない人もいるんだよ

もう、ごもっともすぎる。

他にもこのマレー人の友だちは宗教に関する疑問をすべて答えてくれた。だからそのままスーって受け入れることができた。

マレーシアでの生活の中に当たり前のように宗教があって、宗教があるからこその一体感(良い意味)があった様にも思う。


宗教には良い教えもあるし学ぶことが多くある。

私が宗教を怖いと感じてしまったのは

「宗教」に入らないと大切な人たちと距離ができると思ったり、名前も姿もある神様を信じられない自分を拒否されていると勝手に感じたから。

あとは勧誘されるかもという怖さ。入らなきゃってどこかで思ったから怖くなったんだとおもう。

 

キリスト教の聖書を読んでみると大切なことが書かれている。自己啓発書の中に書いてあることと同じ。イスラム教のコーランだってそう。

日本では宗教が受け入れられにくいかわりに多くの自己啓発書が出版されている。

それを多くの人が購入している事実がある。

みんな「生き方のヒント」が欲しいのではないのかな。

人生何十年しか生きていない人が書いた「生きるヒント」と、何千年も前に書かれて今もある聖書やコーランに書いてある「生きるヒント」はどっちが信頼できるんだろう。後者なのかなって思ってしまう。

だから、その教えは好き。

否定はしてない・・・はず・・・・・。そう思ってたけどやっぱり私は否定してた。

クリスチャンに押し付けようとしてた自分。

実は身近にクリスチャンの大切な人がいるんだけど、その人に、「お墓参りに行っても手を合わせて拝むことはできない」と言われた。

その時に、なんで私の大切な人を大切に想ってくれないの?って思ってしまった。

 

心では想っていると言われても腑に落ちなくて・・・。

 

「墓参りに行って線香をたてて手を合わせて故人を祈る」ことが亡き人を想う形だと思って、それをしなかったら天国から見てる祖母が悲しむって感じちゃってさ。

だけどこれも、宗教によって決まっている相手への祈り方。キリスト教はキリスト教の祈り方がきっとあるはず。

それなのに「当たり前」という自分の常識から相手を見て、「墓参りに行って線香をたてて手を合わせて故人を祈る」ことを押し付けようとし、それをしてくれないことで自分が悲しかったことを一方的に伝えた。

もちろん、おばーちゃんを想うあまりなんだけれど・・・・。

 

ここまで書いてようやく気が付く。

これって・・・・・

「世界では宗教の対立によって、罪のない子どもが巻き添えになったり、人間同士が憎しみあったりすることがある。」

それと全く同じことを私はしているんだなって。

 

相手の宗教を批判して、自分の宗教が正しいということを言おうとしてるのと同じだ・・・・。

そんな自分に気が付いてショックだった。

さいごに。

「正しい」を相手に押し付けることは「批判」と一緒。

もしかしたら、世の中で起こる対立も「相手を批判する」ではなくて、「自分の正しさを証明する」ために起きているのかもしれません。

そして「大切なもの」だからこそ真剣にたたかう人がでてくるのだとおもう。

そんな事に気づかされた。

気が付いたところからまた一歩!不器用なりにひとつひとつ腑に落ちるように考えていけたらいいんだ。

 

相手は相手。自分は自分。それぞれ大切にしてるものを大切にする。相手を尊重する。それだけのことだった。

そんなことに気がつき、自分の中モヤっとした想いが解決!!

以上、オクユイカ(@Saba0m)でしたm(__)m

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おく ゆいか。
介護福祉士→発達障害関係のNPO法人→特別支援学校教諭→退職して青年海外協力隊etc...
”みんな違ってみんないい” を実現する社会をつくるために、NPO法人TetoCompanyを設立し
大分県竹田市にて地域の交流拠点や福祉事業を運営。
小心者でおっちょこちょい。
LGBTサポートチームココカラ!共同代表。LGBT当事者として大分県内で講演活動等もしてます




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