こんにちは。オクユイカ(@Saba0m)です。
お笑い芸人オードリーの若林正恭さんの初エッセイ「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」を読みました。
若林さんと言えば、数年前の「社会人大学 人見知り学部 卒業見込み」という本が20万部も売れて大ヒットに。
この本のネガティブモンスターという章でこんなことを書いていた。
物心ついた頃から「考え過ぎだよ」とよく言われる。
最近では、付き合いが長い人に「何度も言われてるとは思うけどさ」と前置きのジャブが入ってから「考え過ぎだよ」と言われるようになっている。避けれない。
考え過ぎて良いことと悪いことがある。ぼくの場合は考え過ぎて悪い方向に行っている。ということだろう。
みんなはなんで考え過ぎないで済むんだろう? どうすれば考え過ぎなくなれるのか?
と、今度は考え過ぎない方法を考え過ぎていた。
自分のことをネガティブだと自覚していて、考えすぎたり、もがく姿などが人間らしいなぁと感じる一冊。
でね、自分の悩みや違和感が日本のシステムのせいだと感じた著者が、違うシステムの国を見てみたい!
と自分の殻を破りたくってキューバに旅をした時の旅行記が「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」
「灰色の街」から抜け出す為のキューバ旅行記。
「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」の中にこんな文章が書かれている。
僕の違和感。
胸に秘めざるを得ない疑いの念。
ブラック企業が増えたこと。
「スペックが高い」という言葉が人間に使われること。
「超富裕層」「格差」「不寛容社会」
勝っても負けても居心地が悪い。
いつもどこでも白々しい。
持ち上げてるくせに、どこかで足を踏み外すのを待っていそうな目。
祝福しているようで、おもしろくなさげな目。
笑っているようで、目が舌打ちしている。
常に競争させられる社会で、「勝ち組」「負け組」という言葉が生まれ、
「やりがいのある仕事をして、手に入れたお金で人生楽しみましょう!」そんな成果主義に違和感を感じるオードリー若林さん。
もーーーーー、その違和感めっちゃわかる!と私は激しく共感してしまった。
そんな時に若林さんは自分の悩みが「新自由主義」から生まれたものだと気づく。
新自由主義についてコトバンクを調べると
政府の規制を緩和・撤廃して民間の自由な活力に任せ成長を促そうとする経済政策
と書いてあった。
社会主義国であるキューバは日本より「幸せ」なのか
日本は資本主義で、新自由主義的な考え方とも無縁ではありません。
そんな日本と違ってキューバは社会主義国。
社会主義国であるキューバでは自由競争は許されていません。
「資本主義」では自由競争が認められています。その中で生まれたプラスのものもたくさんありますがマイナス面もあります。
個人や民間に任せることのマイナスは、弱者が倒産に追い込まれたり、お金を稼ぎたい!と思う人々が過剰生産をしはじめること。
貧富の差もうまれやすくなる。
こうした資本主義によって生まれる貧富の差をなくすために、国で管理をしていこうという考え方が社会主義。
みんな平等。それを目指しています。
これまでの違和感が日本の新自由主義というシステムの中に居るから起きてくるものではないかと感じたオードリー若林さんが、
経験したことのないシステムの中で生きている人たちに出会おうと、社会主義国家であるキューバを訪れて
その中で、文化や人々に触れながら感じながら
「幸せ」
について、考える本でした。
日本を発つ前に新自由主義に競争させられていると思っていたが、元々人間は競争したい生き物なのかもしれない。
元々、良い服が着たい生き物。
元々、良いものが食べたい生き物。
元々、良い家に住みたい生き物。
それは当たり前なのだが、それが「元々、平等でありたいという気持ち」をだいぶ上回っていたということろが、
社会主義が「失敗したもの」と言われる所以ではないだろうか。
で、競争心に寄り添ったのが資本主義であり、新自由主義であるとすると、
やはり「やりがいのある仕事をして、手に入れたお金で人生を楽しみましょう!」ということがマッチべターとなるのだろうな。
なんだかこうやって、あーでもない、こーでもないと考える若林さんに親近感を覚えます。笑
本全体は、キューバの情景やキューバでの出来事を事細かく書いてあるので
一緒にキューバを旅しているような気分になりました。
おわりに
若林さんはあとがきに東京のことをこう書いている。
上空から見ると、本当に一面灰色の街だ。
死に物狂いで格差社会の勝者になって、トロフィーワイフを連れて、ラグジュアリーなパーティーをしても空しいし、エアコンの無い部屋に住むのも辛いし。
どっちにしろ文句をつけて、自己責任から目をそらしているだけなのかもしれない。
(中略)
この目で見たかったのは競争相手ではない人間同士が話しているときの表情だったのかもしれない。
ぼくが求めていたものは、血の通った関係だった。
私は東京が好きじゃない。
東京が好きじゃないというよりかは、東京に居るときの自分が好きじゃない。
東京にいくと、自分の弱さを見せられない意識になって気を張る自分がいる。
ただの会話ですらも意味を持たせなければならない感覚に陥り、相手よりも知識があるように見せようと、自分を気取る。
「ぼくが求めていたものは、血の通った関係だった」
私が田舎にあこがれを抱いていて、田舎に住み始めたのもの、これを求めていたからだと思う。
オードリー若林さんが感じていることって、私だけではなく世の中の多くの人が感じている違和感なのかもしれませんね。
ではでは、オクユイカ(@Saba0m)でした。
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