当ブログを運営している、おくゆいかです。
お前誰?って言われる前にプロフィールを書いてみようと思います。
生い立ち
おくゆいか 1987年11月16日生まれ
幼少期~小学校
3人兄弟の末っ子として生まれ、甘えん坊だった。
大分大好きと言っておきながら、実は愛知県春日井市出身。
兄姉が少林寺拳法をしており、私には女の子らしく育って欲しかったようです。
保育園まではいじめられっ子だったのですが、小学校デビュー(笑)。
全校生徒130人。クラスメイトは6年間同じメンバーで21人。そんな環境の中でヒョウキンに生きてきました。
割と前に出ていくタイプだったので学級委員とか児童会とかやってました。
小学校の時から
”今、目に見えている世界は本当にココにあるのか?
本当は緑のヘドロみたいなもので出来ているんじゃないの?”
とか学校の帰り道にボーっと石の上に座って一人で考えるような奴。
もともと人間はみんな同じ物体なのに、その上からお面をかぶっているだけなんだと当時から思ってました。
秘密基地づくりとハイパーヨーヨーで遊ぶのが大好き!
小1からクラシックバレエを習ってました。
小学校の卒業文集は「給食戦争」
イチローや本田圭佑さんの卒業文集が夢を具体的に語るような文集を書いてると話題になってましたよね。
私も書いてるに違いないと思ってたんですけど、一生懸命給食のおかわりの方法について書いてました。
中学時代
5個上の兄が中学時代にたい焼きを買い食いしたせいで、入学した日に兄を知る先生から
「お前が、たい焼きの妹か?」といじられはじめる。
”たいやきの妹”として中学校デビュー。
クラスの枠を超えて他のクラスにも友達がいっぱいいたので学校はすごく楽しかった。
勉強も頑張ってましたが、完全に理解できないと先に進めないため、授業妨害並みに質問しまくってました。
「公式を覚えなさい」が通用しない面倒くさいやつ。
これまで絶対的な存在だと思っていた先生が、そうでないことを知ったことがきっかけで、大人に対する不信感が強くなり反抗期到来。笑
”おまえら、子どもだと思って、よくもこれまで偉そうに上から指示してきたなぁぁぁ!!”
ってなんか気が付いちゃった感じ。
(こういう思いが自分の中にあったからこそ、子どもたちと関わる時は、同じ目線で相手を尊重して・・・という意識が常にあります)
中2の時にテニスに恋をし、土下座してクラシックバレエを辞めさせてもらう。
それからは、毎日夜遅くまでテニスしてました。
家庭環境が良くなかったことが原因で中2の終わりに母親と二人で大分に逃げる。
テニス漬けの高校時代
「高校はいかない!」と言っていたけど、テニスの特待生として行けることになったので、それならいっか♪と進学。
荒れた学校だったので勉強はほとんどしてません。
テストで初めて、30点という点数をとって、落ち込む。
しかし、先生の一言で落ち込むのをやめました。
「クラスの最高得点は30点です」
朝から晩までテニス漬け。
ストイックだった性格もあり、足も腰も疲労骨折になりながらも休まず続ける。(正しくは休ませてもらえなかった)
その結果シングルス県ランキング2位、ダブルスランキング1位。
全国大会にも出場。
だけど、「俺がカラスが白と言ったら白と言え!」という顧問の考え方に最終的に我慢しきれなくなり、テニスが大嫌いになる。
引退まで3か月を残し、キャプテンだったくせに退部。
そこから卒業までの期間はバイトをして私立の授業料を払ってました。
このころもずっと思っていました「大人なんてクソッタレ(^^)/」
捻くれてたと思う・・。
学校自体を辞めたかったので、学校に行かなくなる時期も少々。
家出して先生の家に二度ほど泊めてもらったことも。
「次にやりたいことがないんだったら辞めるのはダメ!」と止めてくれた先生に今では感謝。
専門学校時代
専門学校入学を機に改心しました。笑
大好きな祖母が進学のお金を援助してくれたことも大きくて、一番の介護福祉士になろう!と決意して誰よりも勉強をした。
そのおかげで、卒業の時には最優秀学生賞をとる。
今は亡き祖母に卒業式にきてもらって、表彰されるのを見てもらった。
専門学校時代は色々なバイトをしました。その結果、人と直接携わる仕事が一番楽しい!と認識。
高齢者介護を希望だったのですが、実習で行った重症心身障碍児・者施設での利用者さんとの出会いが人生を変えたと感じ、そこに就職。
二十歳ごろ。介護福祉士時代
祖母が私だと認識できなかった成人式の写真。笑
介護福祉士として働く中で大好きな利用者さんと一緒にいられるのは嬉しかったけど、疑問がわく。
「この人たちの生活は本当にこれでいいの?」
「これが彼らにとって幸せな生活?」
「職員間の無意識の差別などはなぜ起こるのだろう?」
重度障がいのある方が大人になる前の義務教育時代に課題があるのでは?等と疑問がわき
学校現場を見たいから教員になる!と決意し、働きながら通信制の大学に通い、教員免許を取得。
一カ月ほどスクーリングに通わないといけなくなったので、退職。ついでにバイクで日本一周をしました。
NPO勤務時代
日本一周をしていた時に、”一人暮らしをしたい”と思うようになる。
当時お付き合いしていた恋人が宮城の方だったので、一人暮らしするなら仙台や♪と、日本一周の途中に仙台市内に家を契約し母に事後報告。
怒られた。笑
日本一周を終えた後に、仙台にお引越し。
だけど、学費の支払いや日本一周をしたりしてたのでお金が全然ない!!!
でも、「ここで働いたら学べますか?」という問いに「間違いなく学べる」と言われた発達障がいのある方の支援をするNPO法人で働くことを決める。
生活ができないので、仙台駅のコンビニでも朝の3時間アルバイト。
時給制だったので貧乏生活でした・・・
リサイクルショップで服を買い
石油ストーブの上でご飯を炊いてた。
ガス代がやたら高いので、真冬(-7度)でもシャワーの時間は20秒!と決めてました。
真冬もバイクを乗り回し、雪や氷でスリップして転倒するのは当たり前。今思うと恐怖!
でも、同じ志を持ったNPOのスタッフと毎日学びながら子どもたちと関われたことは今でも忘れられない想い出。
東日本大震災
仙台に住んで半年後くらいに東日本大震災が起こる。
実は、仙台に住む家を決める時に、家賃が低い二カ所で悩んだんですが、もう一方の家にしていたら津波に流されているところでした。
ある日、食料を得るために長蛇の列に並んでいる時に、後ろに並んでいた男性二人がこんな会話をしてた。
「なんかさぁ、毎日仕事ばっかりしていた時より、今の方が”生きてる”って感じするよね・・・」
今でもなぜか心に残っているこの言葉。
震災後は重度自閉症の児童の支援にボランティアで入ったり、石巻の福祉避難所に介護福祉士としてボランティアに入ったり。
ミクシーで大分県の方から物資を募り、届けるという活動も少ししました。
大分の特別支援学校で教員になる。
震災から一年後、教員採用試験に合格したので大分に戻る。
学校現場は想像以上に楽しい毎日だった!!
子どもたちと一緒に過ごす時間が本当に大好きだった。
さらにNPOや介護士は給料と比べると、とても良い!!
ただ、給料には興味がなく・・・給料明細を見ずにそのまま職員室に捨ててたのばバレて教頭先生に怒られたことも。
自費で県外の研修会や勉強会に参加しまくってました。
学んだことを活用して、自閉症スペクトラムの児童が生き生きと学ぶ姿を見ることが最高に幸せな瞬間でした!
応用行動分析、PECS, TEACCHプログラム、太田ステージなどを学ぶ。
青年海外協力隊でマレーシアへ
二年半ほど学校で勤務したのち、退職して協力隊に参加。
保険のように居場所を残しておくと自分にとって良くないのではないかと思い、休職ではなく退職を選択。
大好きな職場だったし、辞めたくなかったので、校長先生の前で何回も涙を堪えれずに泣きました。
それでも先に進むために辞めました。
そして2016年10月までの二年間マレーシアのボルネオ島という場所で、現地教員への助言・指導、ワークショップの実施などをしてました。
主に、TEACCHプログラムの考え方、応用行動分析を基に子どもたちに携わる。
協力隊の経験は二度としなくていいとは思いつつ、協力隊で得られた経験はこれからの人生で必ず役立つと自信をもって言えるほど大切なものになってる。
TOEIC200点。ダメダメな私でも成長できた!青年海外協力隊参加で学んだ6つのこと。
そして今
20歳の時から”福祉をどうにかしたい!”という思いを持ち、そのために
30歳までは色々な場所で現場を見て経験を積むって決めてました。
それが、あと約1年になりました。(2016年10月現在)
思うがまま行動し、最終的には全てがうまい具合で交わり方向性が見えてくるだろう!という根拠のない自信のないまま進んできましたが、その通りになってます。
今は、描く未来への実現に向けてコツコツと動きはじめている状態。
★2017年10月追記
必ず、インクルーシブ地域を作ります。
必ず。
★2018年10月追記
大分県竹田市にて地域コミュニティ「みんなのいえカラフル」をオープン!
障害の有無や年齢や立場に関わらず月に400名程が訪れる場所になりました!
インクルーシブな地域づくりに向けてすすみます!
カラフルのサイトはコチラ→みんなのいえカラフル
カラフルの実践の記録はこちら→【実践】多様性を認めあう共生社会の実現の難しさと面白さ
ブログへの想い
東南アジア最高峰キナバル山
ここまで読んでくださった方、私に対してどんな印象を持つんだろう・・・。
もしかしたら、なんでも挑戦する前向きな人とか思うのかもしれません。
でもね、そんな風に思われて「あの人と私は違う」と思われて悲しかったことがこれまでに何度かあったから
ブログでは自分の弱さなどをどんどん出してます。
これを投稿するのには、本当はかなり勇気が必要だった。
表面上幸せそうで元気に見えてもみんな色々あるさ!っていう想いを伝えたかったのと、
人目を気にしないで自分を出してく経験をしなきゃって思ったんです。
かっこつけないで、そのまんまでいいじゃんってなった。
人目を気にして自分を出せないで孤独になってる人って多いんじゃないかなと思うんです。
だからこそ私は敢えて自分自身の弱い部分や過去の経験などを書いてるし、これからも書こうと思ってます。
それが、もしも、もしも!どこかの誰かの役に立てることがあるなら最高に嬉しいなぁと思ってます。
そして・・・ブログを書き続けることは自分の夢を実現するための一歩!!
なので、心に残る記事があった時は、シェアやはてブ、イイネ等で広めて下さると最高に嬉しいです・
そんな記事をかけたら嬉しいなぁと思いながらなかなか苦戦。笑
LGBT活動について
私は女性として同性が恋愛対象となる、いわゆるレズビアンです。
レズビアンという言葉が好きじゃないのは、”女性が好き”なのではなく、”好きになった相手が女性”だからだと思います。ちょっとのニュアンスの違いだけど、これはでかいのよ!!
LGBT活動を積極的にするつもりは本当はなかったんですけど、大分合同新聞で大々的にカミングアウトしたり
LGBTサポートチームココカラ!の共同代表をしています。
”好きな人と、一緒にいれたら幸せ”
本当はそれだけなんですけど、悩んでいる仲間がいると、何か自分でできることをしたいな・・・って思っちゃう。
すごい、いい人発言に聞こえるかもしれませんが全然いい人じゃないです。ただの自己満です。
私の目標は「福祉を変えること」
LGBTの方が生きやすい世の中をつくるための活動と「福祉を変えること」は繋がっていると思っています。
だから、できることはしようと思っています。
年上の彼女へ。
私には、年上で頼りがいのあるパートナーがいます。
めちゃくちゃでワガママな私をいつも大きく包んでくれて本当に感謝!!
心配ばかりかけてごめんなさい。
頑張って野菜を食べてなるべく早めに寝るようにします。
なのでこれからも末永くよろしくお願いします。
見捨てないでください。笑
そんな優しくてツッコミが激しいパートナー(ミカンちゃん)との恋愛日記がなぜか人気でよく読まれています。
SNSはこちら
Twitter おくゆいか(@okuyuika)
マレーシア人から自分をアピールすることの大切さを学びました。私なんて・・・
っていう気持ちを押し切って、これからはどんどん発信して周りの方々と繋がっていけたら嬉しいなぁと思っています!!
以上、長くなりましたが、自己紹介でした。
どうぞ、よろしくお願いします(^^)
今、している「みんなのいえカラフル」のインスタグラムでは日々の様子をUPしているので、よかったらこちらものぞいてみてくださると嬉しいです。
インスタグラム→みんなのいえカラフル