【東日本大震災から6年】石巻の大川小学校に行ってきた。

こんにちは。おくゆいかです。

先日、宮城県にいってきました。

宮城は私が1年半ほど住んでいた場所であり、ちょうど東日本大震災が起きた時期です。

私がその時に働いていたNPOの理事長が、緊急サポートチームを結成し、これまでに震災後の子どもたちのメンタルケア、学習支援をしていた関係もあり、今回、震災から6年経った石巻市立大川小学校に連れて行っていただいた。

 

震災から6年の大川小学校は

大川小学校におきた悲劇とは

2011年3月11日。大川小学校は津波により、児童・教職員合わせて84名が亡くなった。

津波が来るという情報は防災無線やカセットラジオなどから入っていながらも、地震発生の午後2時46分から、津波到着までの51分間も校庭で待機していました。

”裏山に登っていると思っていた”

保護者の方はそう思っていたそうだが、実際は違い、

津波を予想しての避難訓練が行われておらず、51分もの間、どこに逃げればよいのかが判断できずにいたために津波に飲み込まれたのだ。

当時不在だった校長、生き残った教員の証言に矛盾があったり、聞き取り調書が破棄されたのではないかということから、人災だということが言われている。

そして、現在も、本当のことを明らかにするための裁判中である。

 

津波で娘さんを失った鈴木さんのお話

いま、大川には、「大川伝承の会」というのが発足している。

津波で多くの命が失われた石巻市立大川小とその周辺地区の被災前後の記憶を後世に伝えていこうと、昨年末に児童遺族や地区住民の有志で結成された。

今回、私達にお話をしてくださった鈴木さんも、そのメンバー。

語り部となったのは、自分自身の心を保つためでもあるとおっしゃっていました。

子どもを失った無念、悲しさ・・・人前でその時のことを振り返ることすら辛いはずなのに、それを乗り越えて、話されているのだろうなと思うと、心が痛くなりました。

 

子どもたち・先生が逃げたルートを実際に回りながら、お子さんが遺体になって見つかった時のことを話してくださいました。

時計の針はないけれど、うっすらと残る針の後が、津波が来た3時37分ごろを示しているのがみえる。

津波被害の後、警察や自衛隊がきたのは一週間後。

その間、消防団でもあり保護者でもある鈴木さんらが手で土を掘り起こし、子どもたちの遺体を掘り出したそうだ。

私が見学にいった時も風が非常に強く、寒いを越えて手などは痛かった。震災後は雪もふっており気温ももっと寒かったはず・・・。鈴木さんが、手袋をしていないのは、その時の娘たちは薄着で寒い中51分も校庭で待っていてもっと寒かったはずだから、とのこと。

震災前の大川小学校は自然に囲まれ、春には桜がきれいだったそうだ。

特殊な地形でもあるため、大川小学校で津波が渦を巻くような形になった。

 

許可を得て学校内も撮影させていただいた。

 

まだ学校内には、子どもたちが使っていたものも残されている。

算数セットのようなものや、乾いた泥にまみれた本もありました。

 

これは放送室に置かれていたもの。

 

大川小学校にはあすなろという特別支援学級もあり、その看板を見た時に、自分が持っていた児童がこんなことになったら・・と思うと涙がでた。

 

小さな命を守っていくために

大川小学校に行った後、当時、この地区の避難場所になっていたビックバンに移動。

震災時、仙台に住んでいた私も介護福祉士として石巻の福祉避難所にボランティアに来ていたことがあり、このビックバンにも足を運んだことがある。

なので、あれから6年も経ったのだなぁ、と改めて年月を感じました。

そのビックバンにて、子どもの意見を国連で表明する会、小さないのちの意味を考える会、そして緊急こどもサポートチームによる意見交換会が実施されました。

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あの時、きっと誰もが判断ができなかったのではないかと思う。

大川小学校の先生方だって、子どもたちの命を救いたかったはず。

自分たちだって生きたかったはず。

誰に責任があるのか・・・・それを問うことは残酷なのではないかと思う気持ちもあります。

自分の娘を亡くした保護者の方だって、当時は誰もが一生懸命だったとおっしゃってました。

だけど・・・

 

「同じことが二度と繰り返されないように」

 

そして、これからの小さな命を守っていくために、今裁判を起こしている。本当のことが知りたい。

そんな想いが沢山伝わってきました。

 

せめて、亡くなった子どもたち、そして保護者の方が納得できるような形で今後の学校の防災教育や災害時マニュアルの作成、具体的な避難訓練に繋げていく必要があるのだと感じた。

 

大川小学校の例が、どこにでもある小学校で起こる可能性があるということ。

そのことを忘れてはいけないのだと思いました。

 

私自身、大川小学校に足を運ぶまでは、どこかで他人事だったように思います。

それが、あの保護者の方の表情、6年たった今も悲しみと向き合っている人がいること、震災後何年も学習する気力さえも失っていた子どもたちが存在したこと・・・

そんなことを知って感じたら、他人事ではなく、自分事になりました。

 

帰りの飛行機に乗る前に、過去の大川小学校関連の新聞を読んだら、行く前にも読んだはずなのに感じ方がまた違って。。。

 

新聞記事の中に埋もれちゃっている人の想いや、その出来事に対して自分自身がどう感じるのかというのは、新聞ではわからない。

現場に行かないと感じられないものがあるなーって実感した日だった。

 

おわりに

ここねっと緊急サポートチームの皆さんは、ボランティアで学習支援を続けて、子どもたちの心に寄り添って支援を続けてきました。

そんなみなさんと行動をともにし話したりする中で感じたのは、彼らの”正しいと思うことを貫くパワー”

お金の為でもなく名誉のためでもなく、そこに傷ついた子どもがいるから、ただそれだけなんだと思う。

 

ベタかもしれないけれど、愛や人の温もりを感じることでしか救えないものが本当にあるなぁって、改めて。
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 おくゆいか 

介護福祉士、NPO法人スタッフ、特別支援学校教員、青年海外協力隊を経て今に至ります。好きなように生きてるアラサーレズビアン。福祉の枠を超えた福祉を作るため勉強中。写真を普通に撮るのが恥ずかしいので、だいたい変顔しています。

<詳しい自己紹介はこちら>

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おく ゆいか。
介護福祉士→発達障害関係のNPO法人→特別支援学校教諭→退職して青年海外協力隊etc...
”みんな違ってみんないい” を実現する社会をつくるために、NPO法人TetoCompanyを設立し
大分県竹田市にて地域の交流拠点や福祉事業を運営。
小心者でおっちょこちょい。
LGBTサポートチームココカラ!共同代表。LGBT当事者として大分県内で講演活動等もしてます




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