先日、母からラインが来た。
というか、家族ラインというのがあって家族が気軽に近況や甥っ子姪っ子の写真をあげていたりする。
私ももちろん見ているし、かわいいなぁと思いながら見てはいる。
だけど、会話には入ってなかったんですね。
母から朝に直接来たラインも夜になっても返さずにいました。
・・・そうなんです。私はラインがマメじゃないんです・・・・。
そしたら、母から電話がかかってきた。
”最近どうなの?学校は行ってるの?体調とか壊してない?”
と。
私はちょっと驚いたと同時に、恥ずかしくなった。
驚いた理由は、そんなちょっとしたことで、こんな風に心配してくれの?・・・と。
協力隊の2年の活動中も、電話もメールもほとんどしていないから余計にびっくり。
恥ずかしくなった理由は・・・
慣れていないからでしょうか。
「いや、別になんもないけど・・・」とか口から発している自分と”心配してくれてありがとう”ってサラッと言えない不甲斐なさ。
早々に話題を変えるのに必死な自分。笑
・・・なんだったんだろう、あの恥ずかしさは。
こんなことがきっかけで「本当の想いを」伝えることや相手に伝わる伝え方の大切さに気がついたので書き残しておく。
目次
母の涙
母は、自分の父親が亡くなった時にも泣いていなくて、当時、小学校2年生だった私はすごく驚いた記憶があります。
父親が暴れても、兄が反抗期で色々あったって、どんな時でも、泣いた姿というのは見たことはない。
だから、私は母は強いんだなぁとずっと、思っていました。
だけど、私が高校の時、反抗期があって、家にも帰りたくない、部活も辞める、高校も辞める、そして同性が好きで・・・。そんな感じで自暴自棄のようになっていた時、
電話で「お母さんの育て方がわるかったの?」と泣きながら私にそう言った。
それが初めての母の涙。
当時、愛知から引っ越した私と母はコウモリがなぜかやってくるボロアパートの三階に二人暮らし。
母の仕事もやっと見つかったばかりでお金がなかった。なのに、テニスを習わせてくれていた。
そんな自分は反抗期という名の通り、母を拒否。というか、自分を受け入れてもらえてない感じがしていた反動のように思う。
正直、誰が悪いとかは思わないです。私は私で生きるのに精いっぱいだったので。
だけど、ひどいことをしたなとは心の底から思っている。そして、そんな私を養ってくれていたことへの感謝が今はある。
雨風しのげる場所があって、ご飯があって、贅沢はできなかったけど洗濯して着れる服があった、、、そういうのって、ほんとありがたい。
何度も話し合ったけど理解し合えなかった
反抗期が終わった後も、色々なことが重なり10年間、理解し合えなかった。その話になるとケンカ。
今だと、母の気持ちがよくわかる。
理解し合うのだって、お互いのタイミングとかあるんだって、今は感じるけれど、その時は自分の言っていることが”その場”で受け入れてもらえないと、「なんでわかってくれないの?!」ってなってどんどん言葉がでてきて
ただのワーワーうるさい人になってたんだもん。
だけど、時間をかけて、少しずつ、不器用ながらも母との関係は良い方向に変わってきたように思うんです。
中々言えないし、ケンカばかりだったけど、”母のことが大好き”という根本にある想いをずっと持っておいてよかった。と思う!
大きなきっかけ
小さなことが色々関連して、”今”というものがあるのだとは思うけど
あ、これかも・・・という大きなきっかけだと感じるものがあるので、そのことを書かせてください。
それが
facebookやブログで自分の気持ちを書く
ということ。
機械音痴な母が初めてスマホにしたのが3年くらい前。その時にFacebookアカウントを作って、私や兄弟の投稿がみれるようにしました。
そしてそこに、このブログのことも時々載せるので、ブログも読んでいるようです。
言葉で発することと、言葉を書き綴ることの違い
誰かに言われるのは嫌だけれど、本を読むのは好きという方は多いのではないでしょうか。
言葉で発することでのコミュニケーションは
言葉のやり取りって、その場でテンポよく返さないといけないので、あんまり思っていないことも口にだしちゃって相手を傷つけたりもするし、話を端的にって考えていると大事な部分をすっぽ抜けていたりすることがある。
それに、相手に言われたことに対して「ん?」って思っても話を合わせちゃって自分の想いを言えなくなってしまったり、相手に言われたことをそのまま受け取らないといけない気にも、時々なる。
その反面、言葉が書き綴られた本などは、押しつけがましくないし、嫌なら途中で読むのを辞めることもできる。
決定権が読み手にあると思うんです。受け取り方だって自由。主体が読み手側。
書く側としては、反射的なことばではなくて、細かいニュアンスとかも丁寧に書ける。主体は書く側である自分
facebookやブログで自分の気持ちを書くということ
ブログやFacebookって、言葉を書き綴ることでのコミュニケーションだと思うんです。
ブログに自分の弱さも想いも全部書きはじめて、少しずつ、少しずつだけど書いたものが人に届くようになってから母との関係がかわってきたりしたのを実感しています。
今回のように、心配して連絡くるのも慣れないから、恥ずかしい。けど、嬉しい。
それに、自分の気持ちを言葉にすることに慣れてくると、自分でも気が付かなかった発見がでてきた。
頭にある気持ちってなんとなく流してしまうことが多くて、そのことすらに気がつかないけど、書こうとするとアウトプットするために出し切らないといけない。
いや、なんか違うぞ?って思って書いては消し、消しては書きを繰り返してる。(だから時間がかかるw)
20代全般の人とか高校生とかがさ、youtubeやtwitterで自分をどんどん発信しているのを見ていると
ああ・・・時代が変わったのね。と思うんです。
ネット=怖い というイメージなんて今はないのでしょうね。もちろん怖さはあるけれど、その反面、個人がどんどん発信できる時代!
だから偏見や怖さは捨てて(?)ついていかなきゃって思うの。笑
本当の想いを伝えること
想いを伝えることと、説得させることって違う。
私が過去に相手(母)にしていたことは ”説得させる” ということだったのかもしれません。
辞書だと”説得とは”
よく話して、相手に納得させること。「強行派を説得する」「説得力」 引用:goo辞典
私のイメージだと、「これが絶対正しい!」というのを話す側が持っていてそれを突き通す感じかも。
説得”させる”っていう言葉が上から目線な感じがするので私はあまり使いたくない。
それに、相手に合う方法じゃなかったから伝わらないという見方もあるけれど、タイミングというものも大きいと思う。
だから、相手のタイミングで受け止めてもらえる可能性のあるブログってすごいなぁと思います。
誰かの為、自分の為だったんだけど、それ以上のことをブログを書くことで得ているような気がしています。
自分の本当の想いを自分自身で見つけること、それを書き残すこと。
説得ではなく、”私はこう思う”というは持っておいて、お互いが想いを尊重しあえてはじめて
本当の想いを伝える になるのではないかなと思いました。
続けていきたいな!
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