今日みた桜が人生で最後の桜になるかもしれない。だから大切な人と見たかった。

こんにちは。おくゆいかです。

やっと春がやってきましたよ!!

私が楽しみにしていたのは。桜。

マレーシアに2年間住んでいたので、3年ぶりの桜。

帰国した10月から楽しみで仕方なかったんです。

 

でも、楽しみにしてたのには訳があって・・・ちょっと桜の話を書こうと思う。

 

大好きな祖母と毎年一緒に見ていた桜。

中学2年生の2月。

当時の私の家庭はとても荒れていました。その父と離れ、私と母は愛知から大分に避難した。

今でこそ大分が好きだけど、最初はだいっっっっ嫌いだった。

 

愛知県こそ自分が生まれ育った場所!そして沢山の友だちがいたから

「私の居場所は愛知県」

っていう想いがずっと消えなかったんだよね。

 

それでさ、中2の終わりごろだなんて、学校の中での人間関係ってとっくに出来上がってたので、

転校した私はどうやってそこに入ればいいのかさっぱりだったし、人見知りの私はなかなか自分を出せなくて。

最初のころは、仲間外れにもされることもあった。

 

転校して1か月たった3月の終わりは祖母(以下、おばあちゃん)の誕生日だったので

そのお祝いに、母といとこで桜を見にいったんです。

(本当は3月の終わりらしいけど、出生届は4月のはじめらしい。3月の終わりだと運動面も勉強面も不利だからだって(笑)

 

まだ、大分に、自分の居場所が無かった私だったんだけれど

おばあちゃんと一緒にいる時は、なぜかすごく心が安らいだんだよね。

 

近くに住むまでは、遠い存在だったおばあちゃんが、一気に大切な人になった。

 

高校に入ってからは部活だったり、母が病気で入院したりと時間が上手く取れなかったし

部活をやめた後も学費を稼ぐためにバイトしてたから、頻繁にはおばあちゃんの家にはいけなかったけど、

 

毎年3月の終わりには、おばあちゃんお誕生日祝いに、一泊旅行として必ず桜を見に行くようになった。

 

月に一度は必ず祖母の家に行って過ごすように

高校を卒業した後は介護福祉士の専門学校に入った。

バイトを二つ掛け持ちし、月曜から金曜、そして土曜日の朝はコールセンターでバイト。

土曜日の夕方5時から次の日の朝9時まで介護施設の夜勤のアルバイトをしていた。

(苦労自慢みたいに聞こえるけど、ただそれが楽しかったからそうしてただけ。笑)

 

日曜日の朝9時からは自分の時間。だけど仮眠が無いバイト先だったからすごくねむいw

 

それでも、月に一回は夜勤明けでそのまま母と一緒におばあちゃんちにいって、

 

”お墓参りして一緒にご飯を食べて帰る”

 

っていうのをした。

ただ、それだけだったのだけれど、それが特別な日だったんです。

で、帰るときには必ず手を握り合って、おばあちゃんに元気パワーを送ってた。笑

 

あ、祖母の家は大分市から30分ほどの佐賀関というところなんだけどめっちゃ綺麗な場所なんですよ!!

(関サバ、関アジの場所)

 

私が専門学校に行けたのは、おばあちゃんと母のおかげ。

だいぶ前に祖母の家に行ったときに、見つけた手紙。

私が高校を卒業していくことになった介護福祉士の専門学校の学費は、祖母が半分、私がバイトでためた20万ほど。そして残りが母だった。

母には反抗ばかりしていたのに、きっと母が祖母にお願いをしてくれたからだよね。

だから、学校に行かせてもらえるという有難みを、せめて成績で返そうと思った。

 

この手紙に書いてある通りしっかり勉強をして、最優秀生徒のような名前の賞をいただくことができました。

卒業式に表彰をされることになってたので、母がおばあちゃんも卒業式につれてきてくれた。

絶対一番の介護福祉士になるって思って、学校の中では一番勉強したって自信持てるくらい

介護の勉強をしていた結果だったから、誇らしかった!!

もちろん、その時の3月の終わりも一緒にさくらを見に行きました。

 

足腰が弱くなっていった祖母

歳をとると足腰も弱くなります。

墓地があるところは足場も悪かったので、お墓参りの時は私が介助しながら階段をのぼるようになってた。

 

私は福祉住環境コーディネーター二級の資格も取得し、おばあちゃんの家の段差や手摺りをつけるバリアフリー化のお手伝いもした。

そうやって、自分が努力して、人の役に立てるのが嬉しかった。

 

高齢者は転倒して骨折することが多い。

大腿骨頚部骨折と大腿骨転子部骨折というのが多く、寝たきりのきっかけになってしまう骨折部位でもあるんだけど、

祖母も、その部位を何度か骨折し、その都度どんどん足腰が弱っていってた。

もうね、歳だから仕方ないよね。。

 

 

仙台に住んでいて3月に会えない時期もあって、その時に介護の仕事をしている姉が介助した時も

「ゆいかちゃんがいないから・・・」

って言っていたらしい。

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青年海外協力隊への参加

大分で教員として数年働いたのち、青年海外協力隊に参加することになった。

協力隊の合格が2月にわかり、3月の毎年恒例のお花見の時に、

祖母に報告をした。

 

「協力隊って知ってる?」って尋ねたら、

 

「いいえ、おばあちゃんはそんなものはしてない

 

と、なんか勘違いして答た祖母。その時すでに89歳。

 

マレーシアに派遣される直前には

「もう、マレーシアから帰ってきたらどこにも行きなさんな(行かないでね)」

そう言って、いつものように手を握って離れた。

 

 

派遣中に何かあってもおかしくないなぁという気持ちも少しはあったんだよね・・・。

 

 

私はマレーシアで何をやっているのだろうかという自問自答。

マレーシアで活動をはじめて半年後の5月ごろ、おばあちゃんがまた転倒して入院したと連絡が入った。

一人で立ち上がることも難しい状態になり、施設に入るという話が出たけれど

 

おばあちゃんは

「自分の家に他人が入るなんていや」

「自分の家で暮らしたい」

という考えだったのを知っていたから、私は施設に入るのを反対した。

 

「私がおばあちゃんの家に住んで介護する!!協力隊の任期は短縮する!!施設には入ってもらいたくない!!」

って伝えた。

 

マレーシア人は仕事はあんまり情熱を注いでないけれど、その分、家族を大切にしてるんです。

家族や親類のの絆が強くて、家族や親類が面倒を見るのが一般的なので、高齢者施設もほぼ、無い。

そんな温かい家族の絆があるマレーシアと、自分と比べてしまい

 

”ねぇ・・・私、大事な人から離れて、こんな所でなにやっているの?”

 

”マレーシアの人達は、家族を一番に大切にしているのに、私は一体なにを大切にしてるの?”

 

って自問自答を繰り返した。

 

自分の活動が任地にとって、どんな意味があるのかどうかもまだあんまり見えない時期だったので余計ね。

 

でもね、最終的には、母が私のことを考えて止めてくれたのもあり、活動を続けることにしたんです。

 

母がほぼ毎日仕事帰りに施設に行き、おばあちゃんの様子を教えてくれたり、時々ライン電話でつないでくれたりしてました。

 

 

だけど、施設に入って1カ月後・・・

 

祖母は施設内で転倒し、発見が遅れたため危篤状態に。

その連絡が入って一時間後には、

私は任地の空港にいました。

 

飛行機を乗り継ぎ、次の日の夕方には病院に到着した。

 

おばあちゃんは、もう話すことができなくなっていました。

だけど、目をあけてジ――っと何かを言いたそうにこっちを見つめたりね、手を握ったらわずかに手を握り返してくれたりさ

今晩が山だって言われていたけれど、おばあちゃんはそれを乗り越えた。

 

それから二週間ほど、日中はおばあちゃんの手を握って過ごした。

 

すごく幸せな時間だった。

 

私が日本に居られる期間は限られていたので、マレーシアに戻るのか任期短縮するかを決めないといけなかったけれど

すでに取り組んでいたプロジェクトがあったので、帰らないといけなかった。

 

最終的には、マレーシアに戻る一週間前に、祖母は息を引き取ったんだけどね。

私含め家族に見守られる中で。

 

最後に看護士さんにお願いをして一緒に体を洗わせてもらった。

 

こうやって最後に一緒にいられたのが、何とも言えない気持ちだった。

 

それからまたマレーシアに戻って活動をつづけたけれど、

家族の在り方だとか、大事な人とどう過ごすのかとか、めちゃくちゃ考えるようになりました。

 

自分が協力隊に参加したこととかは全く後悔はしてないし、行って良かったけれど、

 

毎年楽しみにしていた、おばあちゃんと見る桜を、最後の年に一緒に見れなかったのはやっぱりちょっと複雑だった。

 

3年ぶりの桜を大好きな人とみた。

長くなっちゃったけれど、

そんなことがあるから、私は3年ぶりの桜をめちゃくちゃ楽しみにしてたの!笑

大好きな人と絶対みる!って決めてたから、

昨日は朝4時まで起きて、やること済ませてました。(本当はなぜか緊張して眠れなかった。小学生みたい。笑

 

夕方から恋人と合流して、万博公園に向かいました。平日だったけれど、人がたくさんいた。

さすが、大阪!!屋台もたくさんあったので、屋台で買ってビニールシートを敷いて食べて、

少しの時間だったけれど、のんびり過ごして、、、

あたたかい時間だったなぁ。

祖母や母と桜を見に行くっていうのを毎年繰り返しているうちに、

 

桜=家族 になってた。

 

だからこんなに楽しみにしてたんだなぁ、自分。って気がついた。

 

恋人とこうやって見ることができて嬉しかった!!

四季がある日本が好き。

“もう正月かぁ”

“もう春かぁ”

“もう夏かぁ”

“もう秋なのね”・・・って、

 

日本は四季があるからこそ1年を感じやすいなぁって思う。

 

でね、その時に、一緒に過ごす人がいて気持ちを共有する相手がいるからこそ、

心に残る想いでが増えていくんじゃないかと思うの。

 

おばあちゃんだったり、母だったり、恋人だったり・・・血のつながりがどうかとか関係なく、大切な人たちね。

 

私は多くても、あと60回くらい桜を見たら、死にます。

 

母だってあと30回くらい。

 

恋人は・・・52回くらい??

 

少なければ、もう、今日見た桜が最後だったかもしれない。

 

永遠に続くものなんてないのだから

 

自分が大切だと思うことを貫いたり、自分の心の中に大切な想い出をためて

 

自己満足して死ねたらいいなぁって思う。

 

これからも毎年、大切な人たちと桜を見たい!!

そのためには、やっぱり自分自身が相手を大切に想う気持ち忘れちゃいけないよね。

 

来年はどんな気持ちで桜を見ているのかなぁ~って、楽しみです。

大切な人たちが健康で過ごしていたら嬉しいなって思った。

このブログの運営者
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 おくゆいか 

介護福祉士、NPO法人スタッフ、特別支援学校教員、青年海外協力隊を経て今に至ります。好きなように生きてるアラサーレズビアン。福祉の枠を超えた福祉を作るため勉強中。写真を普通に撮るのが恥ずかしいので、だいたい変顔しています。

<詳しい自己紹介はこちら>

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おく ゆいか。
介護福祉士→発達障害関係のNPO法人→特別支援学校教諭→退職して青年海外協力隊etc...
”みんな違ってみんないい” を実現する社会をつくるために、NPO法人TetoCompanyを設立し
大分県竹田市にて地域の交流拠点や福祉事業を運営。
小心者でおっちょこちょい。
LGBTサポートチームココカラ!共同代表。LGBT当事者として大分県内で講演活動等もしてます




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